『日本書紀』によると、推古天皇21年(613年)12月、聖徳太子が道のほとりに伏せっていた飢人を見つけ、飲み物と食べ物、それに衣服を与えて助けましたが、飢人は亡くなりました。そのことを大いに悲しんだ聖徳太子は、飢人の墓をつくり、厚く葬りましたが、数日後に墓を確認してみると、埋葬したはずの飢人の遺体が消えてなくなっていました。
この飢人が、のちの達磨大師の化身と考えられるようになり、達磨寺は生まれました。
このように、聖徳太子と達磨大師の出会いからはじまった達磨寺には、今も本堂の下に達磨寺3号墳とよばれる古墳時代後期の円墳があります。
これが、聖徳太子が飢人のためにつくったお墓、すなわち達磨大師の墓とされ、鎌倉時代にその上にお堂が建てられて、本尊として道内に聖徳太子像と達磨大師像が安置されました。
境内には数々の史跡が点在。Temple Grounds are dotted with a number of historic sites.ぜひご参詣にいらして下さい。By all means, Please come and go around our temple.本堂には、木造聖徳太子像、木造達磨坐像、木造千手観音坐像など国重要指定文化財に指定されたものも多く安置されています。
他にも、王寺町のマスコットキャラクターにもなっている雪丸像をはじめ、興味深い石造物や古墳が点在し、それらを巡る楽しみもあります。
奈良県の重要文化財に指定されている方丈は、現在、老朽化による倒壊の危機にあり、修復するための寄付を募っています。
木造聖徳太子坐像国指定重要文化財・鎌倉時代
巾子冠をかぶり、笏を手にとる聖徳太子像です。銘文から建治3年(1277)に院恵・院道が制作したことがわかります。袍の皺部分にわずかに彩色が残り、もとは緋色に着色されていたことがうかがえます。
木造千手観音坐像王寺町指定文化財・室町時代
本像は現状で392手あり、もとは500手で構成されていたと考えられています。すべての掌に玉眼による目が表現されており、精巧な造りの背景には、当時中興の際の室町幕府の支援があったと推測されます。
木造達磨坐像国指定重要文化財・室町時代
銘文によれば、永享2年(1430)に足利義教が命じて制作させたものです。彩色は画僧の周文が担当し、衣が鮮やかな朱色に塗られ、髭や胸毛などまでが細緻な筆づかいで見事に表現されています。