臨済宗南禅寺派 片岡山 達磨寺 ~聖徳太子遺跡霊場 第十九番~

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達磨寺の見どころとぎもんHIGHLIGHT & QUESTION達磨寺には見どころが盛りだくさん。「知る人ぞ知る」必見ポイントをご紹介!

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  • よもやま5色布について。開く

    5色布について。お寺では大切な行事などの時に5色布を本堂の周りに飾ります。
    どうして5色の布を飾るのでしょうか?

    仏教はインドからチベット、中国、朝鮮半島を経由してCE538年頃
    日本に伝来しました。
    チベットや、お釈迦様が生誕された地ネパール南部(ルンビニ)
    の現在の風景を見てみると、タルチョ―という5色の旗が日常、家の屋上
    、寺の中央、山頂、峠、橋や水辺などに飾られています。

    厄災を祓い、仏陀の教えが速く遠くへ広まるよう願いが込められています。

    タルチョ―には青・白・赤・緑・黄と順番が決まっていてそれぞれに
    天・風・火・水・地の意味がありこの世界の全てをつくる「五大元素」
    を表しているそうです。
    タルチョ―は仏教が生まれる以前からあり、仏教と融合していく中で
    現在の形になっていったそうです。

    仏教発祥の地のタルチョ―と日本寺院の5色布
    時と場所を超えて共通する思いが込められているようです。

  • よもやま禅宗って何宗?開く

    禅宗って何宗?禅宗という宗派はありません。日本には、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗という三つの宗派があってこれををひっくるめて禅宗と呼んでいます。過去には達磨宗や普化宗というのもありました。中国ではもう少しの宗派がありました。有名な寺としては少林寺があります。これらの全ての禅宗の初祖が達磨大師です。
    日本史の時間には、臨済宗は栄西、曹洞宗は道元で鎌倉時代、黄檗宗は隠元でずっと後の江戸時代、と習いました。覚えるのめんどうですね。臨済宗をつくったのは誰か、といえばそれは中国の臨済です、黄檗宗は同じく黄檗です。簡単ですね。それでは曹洞宗は曹洞、かというとこれは少し違って曹山、洞山という二人の人がつくったのです。これでもまだ覚えやすいですね。ここから少しややこしくなるのですが、ずっと後に入ってきたはずなのに黄檗は臨済の師匠なのです。曹洞宗という名前のはずなに洞山は曹山の師匠なのです。
    それはともかく歴史の時間に「臨済宗、黄檗宗をつくったのは誰か」という問題が出たら胸を張って「臨済です。黄檗です。」と答えましょう。(当寺は責任はとりません)

  • よもやま虚無僧は何処へ行った?開く

    虚無僧は何処へ行った?突然ですが、虚無僧は禅僧です。ご存知でしたか? 隠密や忍者ではありません。尺八を通して禅の境地に至らんとする厳しい修行者なのです。もっともそのスタイルから良からぬ輩の隠れ蓑になりやすかったのは事実です。時代劇では大活躍の虚無僧、昭和の頃はまだちらほらと姿を見かけた虚無僧さん。いったい何処へ消えてしまったのでしょう。
    虚無僧は鎌倉時代にできた普化(ふけ)宗という禅宗の修行僧です。本山は京都の明暗寺(みょうあんじ)といい、心を虚しくして尺八を吹き悟りにいたらんとする、ある意味とても禅宗らしい禅宗です。「明暗」とかいた袋をぶら下げていたのはご存知でしょう。良からぬ輩のせいで白い目で見られるようになっていったのは誠に残念です。そんな訳で江戸時代末期には(全て偽物のせいなのですが)段々と評判を落とし、明治時代の廃仏毀釈の折に普化宗廃宗ということになってしまいました。ここに仏教宗派としては終焉を迎えましたが、明暗寺は京都東福寺の塔頭善慧院(ぜんねいん)に居を移し明暗協会として虚無僧行脚を続けられています。東福寺に行けば右に善慧院左に明暗寺の看板のある寺を見つけることが出来るでしょう。
    ところで英文などの紹介では尺八は世界で唯一「武器にもなる楽器」だそうです。そういえば虚無僧が襲われた時には尺八で応戦していますね。で、大抵は真剣を蹴散らしてしまうという恐ろしい楽器です。

  • よもやま甲子の年はいつか?開く

    甲子の年はいつか?来年(平成29年)は酉年(とりどし)でまた丁酉(ていゆう)年とも言います。古来の紀年法に十干十二支(じっかんじゅうにし)と云うのがあります。甲乙丙丁戊己庚辛壬癸、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥、を組み合わせて60年で一周する紀年法で、甲子の年を最初の年とし次を乙丑とします。壬申の乱や乙巳の変とかいうあれですね。掛け軸には今だに書いてあったりします。たとえば「昭和丙子年」とあればこれはいつのことでしょうか? そのためには「甲子の年」が分かればいいですね。甲子園もこの年にできました。
    私が見つけた法則に「昭和-123の法則」("-"はマイナス)というのがあります。すなわち「昭和-1年」「大正-2年」「明治-3年」が甲子の年だというのです。「昭和-1年」とは「昭和1年」の2年前のことで大正13年のことです。他も同じです。ただし、すぐ分かるように大正は15年しかありませんから「大正-2年」は甲子ではなく単に語呂合わせのためのダミーです。ところでこれを考えたのは昭和の時代だったのですが、その後平成という時代がやって来たのです。平成はどうか?と計算してみますと、なんと「平成-4年」が甲子の年だったのです。ちょっと変則的ですが法則は守られたのです。改して「昭和-123.4の法則」。さて、はたして次の時代やいかん?

  • よもやま達磨の衣鉢を継ぐ開く

    達磨の衣鉢を継ぐ「衣鉢(いはつ)を継ぐ」という言葉があります。師匠の奥義や伝統などを受け継ぐことを言います。元々、禅宗の師僧が自分の仏法を全て伝授した正当な後継者である証拠として、自分の衣(ころも)と托鉢(たくはつ)に使う鉢(はち)を弟子に与えたことが始まりです。
    さてそれでは現在、達磨の衣と鉢は誰が持っているのでしょうか。これを持つ人が達磨の仏法の正当な後継者なのです。推古天皇21年、聖徳太子は片岡山において飢人に衣と(食べ物の入った)鉢を施されました。飢人はこれらを有難く受け取るも次日には亡くなり、(中略)、聖徳太子はこれを持って来させ平然と、(後略)。飢人はすなわち達磨であって、これすなわち達磨の衣鉢なのでした。太子はこれを法隆寺に残し永く伝えられました。時は下って明治11年、廃仏毀釈に耐えかねた法隆寺は宝物を手放さざるを得ざるも、その散逸を防ぐためにまとめて皇室に献上することとなりました。皇室は上野の国立博物館の一画に法隆寺献納宝物館を建てて所納し、今に至ります。この中にかの衣鉢もあったのでした。つまり現在、達磨の正当な仏法を継ぐのは日本の皇室なのです。

  • よもやまおみくじで将軍を決める開く

    おみくじで将軍を決める左2図は当寺に伝わる「二尊掛軸」です。画は雪舟の師匠周文、賛は六代将軍足利義教(よしのり)です。将軍義教(右図)は当寺の中興にとても力を注がれました。でもどんな将軍だったのでしょう。
    五代将軍義量(よしかず)は後継ぎを決めないまま夭折してしまいました。次将軍の座を巡ってもめにもめたのですがなんと!クジ引きで次の将軍を決めることになったのです。そこで採用されたのが石清水八幡宮のおみくじ。このおみくじをみごと引き当てたのが義教だったのです。だけどクジ引きで選ばれた将軍なんて誰もエライと思いませんよね。そうでなくても室町幕府は将軍の力が弱く諸侯を束ねかねていたのです。ところがあにはからんや、義教は信長ばりの強権を発動して軒いる諸侯をねじ伏せてしまいました。なぜそんな事が出来たのでしょう。おみくじで選ばれるということは神に選ばれることなのです。「ワシこそは神が選んだ将軍じゃ。ワシに逆らうことは神に逆らうことじゃ」と室町時代一番の強権幕府を作り上げてしまいました。おみくじってすごいですね。ウチのお寺のおみくじも引いてくださいね。

  • よもやま達磨大師の真言は?開く

    達磨大師の真言は?達磨大師の真言がわからないというメールを頂きましたのでお答えします。
    1.真言宗とは別の流派である、達磨大師を初祖とする禅宗では、真言を称えません。禅宗の僧侶は真言を知りません。知っている人もいますが他宗派の知識として知っているだけです。
    2.「真言」とは一般に仏、菩薩、天、明王など(人間以外)の名を原語(梵語:インドのサンスクリット語)で称えることです。一方、高僧、聖人など(人間)には「宝号」というのがそれに当たり、弘法大師の「南無大師遍照金剛」等があります。こちらは漢読み(漢音)ですね。
    3.達磨大師は僧侶ですので宝号ということになるでしょうが、禅宗では「南無初祖菩提達磨円覚大師大和尚」(ナムシースブジダモエンカダイスダイオショウ)と称えます。これは唐音です。ただし特にこれを宝号と言ったりはしません。
    4.「ダルマ」というのはそのまま梵語ですので、敢えて真言であれば、「オンボーディダルマソワカ」といったところでしょうか。
    5.以上をふまえて、「達磨大師の真言は?」という問いには「ありません」というのが答えでしょう。

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